本能寺の変の不思議
消えた織田信長と明智光秀

 戦国時代の覇者、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれた。これを本能寺の変という。

周辺地図
1582年(天正10年)6月1日

 本能寺において茶会がひらかれる。



 毛利攻めをしていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)への援軍を命ぜられ、明智光秀は丹波亀山城から1万2千〜3千(1万5千という説もあり)の軍を率いて備中高松城へと向けて進軍していた。
しかし、京都の国境を越えた沓掛(くつかけ)に差し掛かったあたりで、進路を京方面へと変える。
本能寺の変
6月2日明け方

 本能寺を明智光秀軍が包囲。(明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれて本能寺に侵入)このとき、光秀自身がどこにいたのかは不明。
織田信長は安土から連れてきていた小姓20〜30人ほど(100名ほどの兵がいた可能性も考えられる?)と一緒に応戦するが、館に火をつけ自刃。信長、享年49。
本能寺の焼け跡からは、遺体どころか、それとおぼしき骨さえも発見されなかったという。(信長が確かに本能寺にいたという証言を、逃げ出してきた女から秀満が聞き出し、信長死亡の確認とした。という話もある)
このことから、信長が子女に紛れて逃げおおせたのではないかという推測が出てくるのだが、焼け跡から遺骨を探し出す技術(または時間)がなかっただけだと言う意見もある。


 信長は死んでない?▼



 信長の嫡男-信忠と五男-勝長は、本能寺にほど近い妙覚寺に滞在していた。(家康と一緒に堺に行く予定だったが、前日に予定変更)京都所司代の村井貞勝から明智軍本能寺襲撃を知らされると、本能寺に駆けつけようした。しかし、事態は決していると諭され、防備に乏しい妙覚寺から二条城に移動することにした。
明智軍との交戦で猛攻をみせた信忠であったが、力尽き自刃したとされる。(首級は発見されなかったらしい)信忠、享年26。
このとき、信長が宣教師から譲り受けた黒人兵-彌介(やすけ)が信忠とともに二条城で奮戦したが、光秀に捕まる。(その後、解放されたそうだが、解放後の行方は不明)

 信長より13歳下の弟である織田長益(ながまさ)も妙覚寺に滞在しており、信忠らが二条城に移動したときも行動を共にしている。だが、長益は、窮地を切り抜け京から脱出。安土へ向かい、その足で岐阜まで逃げている。
前田玄以は、信忠の命令で信忠の嫡男-三法師を引きつれて、京を脱出し岐阜城へ、そして清洲城まで逃げている。
京は光秀軍でごったがえしていたと思われるのだが、よくそれを掻い潜ることが出来たものだ。

 織田長益 その後▼



 徳川家康は堺(大阪)にいた。家康も、お供の数が数十名という丸裸状態。(本多忠勝、服部半蔵が同行していたという説もあるのだが、あるていどの猛者は連れていたのかもしれない?)

 信長といい家康といい、なぜこんなに無用心だったのか?
というのも、周りに敵がいなかったのである。
この時点での主だった敵は、東北の伊達、越中の上杉、関東の北条、中国の毛利、四国の長宗我部、九州の島津であった。
滝川一益が関東で睨みをきかせているうえに、伊達と北条は信長に恭順する姿勢をみせていたし、越中の上杉は柴田勝家が攻略中、羽柴秀吉が備中で毛利と対峙、信長の三男-信孝(神戸信孝)を総大将に置いて四国討伐の体制を整えている状態だった。つまり、近畿、関西に敵はいない状況。
長年の脅威であった甲斐の武田を駆逐し、その功労者である家康を近畿に招きいれ、信長らは大いに羽を伸ばしていたのである。

 とはいえ、落ち武者狩りをするような土着民はゴロゴロしていたらしい(穴山梅雪や明智光秀が襲われているように)ので、街中以外は安全とはいえなかったのであろう・・・。


 家康の家来、本多平八郎忠勝は京へ向かっていた。家康が信長のもとへ挨拶に伺うための先遣隊だったと思われる。
途中、商人の茶屋四郎次郎と出会う。京にいた茶屋は、本能寺の出来事を知ると、懇意であった家康に知らせようと堺へ向かっているところだった。茶屋から話を聴いた忠勝は、来た道を急いで戻る。

本能寺の変直後の主だった軍の兵数
6月2日昼ごろ

 本多平八郎忠勝と茶屋四郎次郎は、後発の徳川家康一行と合流。織田信長が明智光秀によって討たれたことを報告する。

 丸腰状態の家康には光秀に対抗する術がない。軍兵は自領である三河に置いてある。もし、光秀軍が家康をも亡きものにしようと動きだしたらひとたまりもない。脅威は他にもある。信長が討たれたことを知った者たちの中には、家康の首を取ろうとする者も出てくるだろう。もはや周りは敵だらけと言っても過言ではない状況。
家康は自害すら考えた。(本能寺へ行って信長の後を追おうとしたという話もあるのだが・・・とても胡散臭い話である)
が、家来たちに諌められ、三河に戻ることにした。
商人である茶屋は多方面に顔が利き、大量の金銀も持参していた。そして、同伴していた家来の内に伊賀の出である服部半蔵がいたことも幸運であった。伊賀にさえ辿り着ければ、あとは半蔵のツテで伊賀を安全に越えられる。伊賀を越えればそこは伊勢、明智の勢力外である。伊賀にたどり着けるかどうかで生死が決する。

 ここである仮説が出てくる▼

 道中、徳川一行に同行していた穴山梅雪が別行動を取るという不可解な出来事が起きる。

 穴山梅雪は、もともと甲斐武田家の一族。信長が行った甲州討伐のさい、信長に協力した功によって駿河の所領をそのまま所有することを許された。駿河の国主は徳川家康。

 梅雪は家康と別れて、宇治〜美濃〜甲斐というルートを取ろうとしたらしい。梅雪が連れていたお供の数は判らないが、家康とともに駿河に向かったほうが安全だと思うのだが、なぜだか別行動をとる。
その理由は「家康を疑った」からだそうだが、この窮地でなにを疑うというのか?
梅雪の所領を奪い取るために、家康が信長討ち死にという虚言を使って梅雪を山奥に連れ出し殺害しようとしているとでも思ったのだろうか?

 家康と別れた後、梅雪は土着民(落ち武者狩り?)の襲撃にあって命を落としたことになっている。

 ここでもある仮説が出てくる▼
 
6月3日

 備中にいた羽柴秀吉が「織田信長討たれる」の報を聞いて(陣の近くで不審者を捕まえ、調べてみると、小早川隆景に宛てた光秀の密書を持っていた。という話もある)、毛利側と和平工作を始める。
報を聞いた秀吉の参謀のような存在であった黒田孝高(官兵衛/出家後-如水)は「運が向いてきましたな」と言ったとか。
中国大返しも黒田の進言によるところが大きいとされている。



 明智光秀、坂本城入城。
6月5日

 明智光秀、安土城を接収。(4日だという説もある)
このとき、光秀は安土城に残っていた財(蒲生賢秀が運びきれなかったもの、ということだろうか?それとも手付かずだったのか?)を接収し、同盟工作・朝廷工作に使ったであろうことが想像できる。(はたして、どれほどの財宝があったのかは判らない。が、そこは・・・ほれ、天下人の居城。想像を絶するぐらいのお宝の山があったであろう・・・)
光秀軍によって安土城は荒らされ、光秀軍が去って無人になったところに、土民たちが盗賊と化して進入。その混乱の中で火災が起こり、安土城の一部が炎上した。というところだろうか。(?)



 四国討伐に参加していた津田信澄(父は信長の実弟-信勝)が、明智光秀の女婿だという理由で内通を疑がわれ、織田信孝、丹羽長秀らによって大坂城で討たれる。信澄、享年28。
秀吉の中国大返し
6月6日

 羽柴秀吉、毛利側との講和をまとめ、陣を引き払う。



 織田信長の次男-織田信雄(のぶかつ)が、安土城を放棄した蒲生賢秀(がもうかたひで)から信長、信忠らが討たれたこと、光秀の軍勢が安土に入ったことの報を受ける。


 蒲生賢秀が留守居役として安土城を守っていたわけだが、本能寺の変の報を受けると、信長の妻子を連れて自らの本拠地である日野城(滋賀県蒲生)へと避難する。
安土城では明智軍を迎え撃つことはできなかったということだろうか?
安土に信長の兵なし?
なんとも釈然としないものがある。
討たれた君主の居城であった安土城を放棄してまで、日野城に逃げたというのが解せない。
安土城よりも日野城の方が防備に勝っていたということなのだろうか?
安土城を守れという号令を近隣に出せなかったのだろうか?
松ヶ島城(三重県松阪市)にいる織田信雄に援軍を頼んだが、援軍が来るまで持ちこたえられそうにないと判断して自領へと逃げたのだろうか?


 織田信雄、松ヶ島城から出陣。



 徳川家康、三河に到着。(到着日に諸説あり、6日から9日の間とされる)
6月8日

 羽柴秀吉、姫路城に到着。
家臣団にありったけの兵糧・金銀を分与し、戦の準備を整える。
6月9日

 明智光秀上洛。朝廷工作をする。



 羽柴秀吉、姫路城から出陣。



 この日、織田信雄が安土に着いたという説もある。(注・この説は誤りだとされている)
6月11日

 羽柴秀吉軍、摂津尼ヶ崎に到着。(姫路から尼ヶ崎までは約80`)



 織田信雄が安土城に入城。
このとき、すでに本丸、天守閣、城下の町も炎上していたという説もある。(注・この説は誤りだとされている)
「日本西教史」では、信雄が安土城に火をつけた犯人だとしていて、イエズス会のフロイスは「信雄は智に乏しかったから」と理由を述べている。「暗愚な信雄が他者に安土城が奪われることを恐れて火をつけた」という読みなのだろうか?
 しかし、、信雄が安土城に放火する理由としては、いまいち説得力に欠ける。しかも、信雄は安土まで来ることなく退却しているという説の方が有力視されていることから、信雄が放火犯だという説は信憑性が低くなってしまう。
安土城炎上の理由は、土民が略奪目的で乱入し、それにともなって火災が(放火とも言われている)起きたというところだろう。
6月12日

 羽柴秀吉が、中川清秀、蜂谷頼孝、高山右近、池田恒興らを味方につける。

 秀吉が「織田信長存命」の噂を流布していた(または書状を送っていた)ので、秀吉軍につくものが多かったという話もある。

 さらに、四国討伐軍の織田信長の三男-織田信孝、丹羽長秀らと摂津富田(せっつとんだ)で合流。

 明智光秀討伐軍は総勢3万6千〜4万(うち2万は秀吉軍)。
四国討伐軍からは逃亡者が相次ぎ、1万4千だった兵が7千にまで減ってしまっていた。そのため、実権は兵の数で勝る秀吉が握っていたのだが、名目上の総大将は信孝とされた。(信孝のほうから秀吉に指揮権を譲ったという話もあることはあるのだが・・・)

 四国討伐軍が減ってしまった理由は?▼
 
山崎の合戦
6月13日

 両軍が山崎でぶつかる。
おしよせる大軍の前に光秀軍は撤退を余儀なくされる。
光秀は坂本城に逃げる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区)で落ち武者狩りに遭い負傷。もはやこれまでと観念したのか、家臣に介錯され自刃。(土民に竹槍で刺されて死んだという説もある)享年55という説もあるが、なにせ生年がはっきりしていないので定かではない。

 謎が多すぎる明智光秀という男▼
 
6月14日

 明智秀満が安土城に放火してから坂本城に移る。(15日という説もある)(注・これは「太閤記」「秀吉事記」によるものだが、これも誤りの可能性が高いらしい)



 準備を整えた徳川家康が明智光秀討伐のために出陣。
6月15日

 坂本城において、明智秀満が明智光秀の妻子を刺殺。自らも坂本城に火をつけ自刃。
6月中旬〜下旬

 京へ向け軍を進めていた徳川家康は、尾張あたりまで来たところで羽柴秀吉が明智光秀を討ったという知らせを聞き撤退。
清洲会議
6月27日

 清洲城にて織田家の後継者についての会議が開かれる。

 織田家筆頭家老である柴田勝家が織田信長の三男-信孝を推し、羽柴秀吉が信長の嫡男-信忠の遺児である三法師(秀信)を推したことで後継者争いが起きる。
しかし、秀吉の明智光秀討伐における功績はあまりにも大きく、池田恒興、丹羽長秀が秀吉を支持したこと、信孝は神戸氏の養子に出ているので織田家の後継者としての正当性は三法師のほうがあると諭されたこと、信孝を後見人にする(信孝が三法師を預かる)という妥協案が出されたこと、などの理由で勝家はしぶしぶ折れた。

 信長の重臣の一人だった滝川一益は、信長の死を聞きつけた北条が挙兵したためその対応に追われ出席できなかった。(北条に領地を侵略されていることを責められ、出席を許されなかったとも言われる)

 信長の次男-信雄は後継者争いに参入することができなかったようだ。光秀討伐の功労がなかったからだろうか?
この信雄となんらかの接触をしていたと思われるのが秀吉だ。信孝と仲が悪かった信雄は駒として使えるとでも思っていたのだろうか?

 信長の四男に秀勝(幼名-於次/おつぐ)がいるのだが、秀勝は秀吉に養子縁組されているので、信長の後継者争いの対象にはならなかったようだ。


 秀吉は、勝家を説得するために信長の妹-お市の方(浅井長政の妻)も引き合いに出したのではないだろうか?
お市の方は、小谷城陥落(天正元年/1573年)後、清洲城で暮らしていた。清洲会議のときも清洲城に居を構えていたと思われる。
光秀を討ったことで実権を掌握しつつあった秀吉が、清洲城にいるお市の方に目を付けぬはずがない。
清洲会議のあと、お市は勝家と再婚。
(勝家とお市の結婚については、秀吉が仲介した説と信孝が仲介した説がある。もしかしたら、両者がそれぞれの思惑でそれぞれに仲介していたのかもしれない)



 清洲城会議で、三法師は安土城に移動することに決まっていた。
が、織田信孝は柴田勝家と滝川一益を味方に引き入れると、これを無視。三法師を清洲城に留め置いたままにした。
10月

 柴田勝家が滝川一益、織田信孝と組んで、柴田秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまく。
10月15日

 柴田秀吉は、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として信長の葬儀を行なう。
賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い
12月7日

 羽柴秀吉が長浜城を急襲。城主である柴田勝豊は、叔父(または伯父)である柴田勝家の援軍が豪雪のため期待できないことから勝ち目なしとみて降伏。
12月9日

 羽柴秀吉は柴田勝家討伐の動員令を発令。(勝家の本隊が雪のため越前から出てこれないと踏んでの挙兵)
5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣。
12月16日ごろ

 織田信孝が岐阜城を秀吉軍に包囲された形になり、三法師を引き渡し和睦する。このとき、生母(坂氏)、妹、娘、側室(神戸の板御前)を人質として差し出す。
1583年(天正11年)1月

 伊勢において、秀吉方と滝川一益が交戦。
2月28日

 柴田勝家の家臣、前田利家が出陣。
3月9日

 柴田勝家が3万の軍を率いて出陣。
3月10日

 柴田勝家軍の先鋒、佐久間盛政が北近江の柳ヶ瀬(やながせ)に着陣。
3月17日

 羽柴秀吉の本隊が北近江木之本に到着。
4月半ば

 柴田勝家優勢と見るや、織田信孝が岐阜で再び挙兵。
羽柴秀吉は本隊を率いて岐阜へ移動開始。
4月20日

 佐久間盛政が奇襲をかけ、大岩山を守っていた中川清秀隊を破る。清秀は討ち死。
ついで岩崎山も占拠。

 大岩山・岩崎山の陥落を聞いた秀吉は、岐阜には織田信雄をあたらせ、本隊を木之本に戻す。
52kmを五時間で移動するという驚愕の離れ業をやってのけた後、すぐに盛政隊の殿である柴田勝政隊と交戦。勝政隊敗走。

 勝家の家臣、前田利家隊が戦線から離脱。
 勝家の与力大名だった金森長近と不和勝光の隊も戦線から離脱。
4月21日

 柴田勝家軍総退却。
北の庄城の戦い
4月22日

 羽柴秀吉軍は柴田勝家軍を追って越前に侵入。
秀吉は越前府中城で前田利家と会見。(どうやら、だいぶ前から秀吉と利家の間で密約が交わされていたらしい。この会見は今後の動向の打ち合わせだった?)
4月23日

 北ノ庄城を秀吉軍(主力は前田利家隊と堀秀政隊)が包囲。
4月24日

 柴田勝家は、お市の方(享年37)らとともに自害。
4月後半

 織田信雄の説得のもと、柴田勝家が北ノ庄城で自害したことを知らされ、織田信孝が降伏。
人質として出されていた生母(坂氏)、妹、娘、側室(神戸の板御前)は処刑された。
4月29日(もしくは5月2日)

 織田信孝が更迭先の大御堂寺(愛知県美浜町)で自害。享年26。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでの功績を秀吉が無視したとし、信雄は秀吉との関係を絶つ。
小牧・長久手の戦い
1584年(天正12年)3月

 織田信雄が徳川家康と組み、羽柴秀吉と対峙。
11月11日

 織田信雄が羽柴秀吉と和睦し、その軍門に下る。
12月12日

 織田信雄が羽柴秀吉と和睦してしまったことで大義名分を失った徳川家康は、秀吉に人質として次男の於義丸(のちの結城秀康)を差し出すことで和睦。
その後
1585年(天正13年)

 羽柴秀勝が亀山城で病死。享年18。
秀勝は1582年(天正10年)の高松城の水攻めから参戦していて、その戦姿は賞賛されるほどの雄姿だったそうなのだが、元々病弱だったらしい。

 羽柴秀吉、関白になる。
信長は死んでない?

 従えている者はあまり戦力になりそうもない小姓だけ。京の町は明智軍がひしめいている。この状況で、もし運良く京を脱出できたとたらどこを目指す?

○信長の嫡男-信忠のもと
 信忠は本能寺に程近い妙覚寺にいた。とりあえず、近場の味方と合流しようとするかもしれないが、本能寺と同様、ここも明智軍に強襲されている可能性は高いと予想して避けるだろうと思う。

○次男-信雄のもと
 信雄は松ヶ島城(三重県松阪市)にいた。頼りにするには遠すぎるか。

○三男-信孝(神戸信孝)のもと
 信孝は堺において、四国討伐のための渡海準備をしていた。四国討伐軍1万4千というのは心強い。ここに逃げ込めさえすればなんとかなるかもしれないが、わりと距離はある。

○四男-秀勝(幼名-於次/おつぐ、羽柴秀勝)のもと
 秀勝は、義父である羽柴秀吉(養子縁組している)とともに京から程遠い備中攻めに参加している。ここはあまりにも遠い。

○五男-勝長のもと
 勝長は、嫡男-信忠とともに妙覚寺に滞在。

 六男以下はまだ元服していない。

○織田家の中で三番目の地位にいたと思われる織田信包(信長の弟)のもと
 信包は上野城(伊賀)にいたらしい。京からはわりと近いところである。ちなみに、信包は信忠の補佐役だったらしい

○居城である安土城
 琵琶湖に出て船を使う。これが一番早そうである。

 いずれにせよ、兵を伴っていない状態では、明智軍や物取り(落ち武者狩り)の襲撃をかわしながら無事に逃げ切るのは難しい・・・・・・。
本当に難しかった?
現に、織田長益や前田玄以と信忠の嫡男-三法師らは、京からの脱出に成功している。
信長も本能寺さえ抜け出せれば生き延びることが出来たのではないか?
脱出用の地下道(抜け穴)なんかは無かったのだろうか?(発掘調査でもしてみれば解るのだろうが、跡地は建物が建っているらしい)
もしかしたら、信長も脱出に成功していて、歴史の表舞台からは姿を消したものの、隠遁しながら影で歴史を動かしていた。ということはありえないだろうか?


 信長も嫡男の信忠も、その遺体は確認されていない。ここがとても怪しいところなのだ。
つけいる隙とでも言おうか。



 信長の遺体は特定できなかったが、

◇「たしかに本能寺におりました」という待女の証言
◇完全なる包囲網の中を逃げ出すことは不可能
 この二点から、信長は本能寺とともに焼失したと思われる。瓦礫の中からそれだと特定できる遺体は見つからなかったが、信長が本能寺で死んだことは確実。

という報告を秀満から受けたとする。
あなたが光秀ならどうする?

 「なにがなんでも信長の遺体を持ってこい!特定できなくてもそれらしい遺体を持ってこい」
 とは、ならないだろうか?
信長を討ちました。以上終了〜解散〜というふうになるほど、光秀はおめでたいヤツだろうか?

 信長の遺体を京の町に晒して、討たれてしかるべきという大義名分を掲げる。そうすることによって、保身にもなり、信長の後釜に座る道も見えてくる。その場合の大義名分は、「天皇に取って代わろうとした不忠者を討った」とか、「自ら神を名乗ろうとしている不届き者を討った」とか、なんでも良い。
そのためには、なんとしても信長の首は(たとえ骨になってしまっていたとしても)必要だったはずだ。
信長の嫡男-信忠の場合も同じで、二条城で自害しているというのに首級は不明だったという。
 「どれが信忠の遺体なのかわからないなら、適当にその辺の死体から信忠っぽい首をもってこい!」
 とは、ならなかったのだろうか?


○信長の遺体が発見されていない。
○信忠の遺体も発見されていない。
○光秀は、それらしい首級を晒しあげる偽装行為さえしていない。

 どう考えても変だ。
的である信長と信忠の首を押さえられなかった。
もしかしたら、光秀の謀反そのものが嘘だったのではないか?と、疑いたくなるほどの間抜けぶりである。
考えれば考えるほどありえない。



 本能寺の変が起きたときの信長の年齢は49歳。あと20年ぐらいは生きたのかもしれないが(ちなみに家康は享年75)、先はそう長くない。
念願だった天下統一は、もはや時間の問題。
この国のすべてを手に入れた覇王は、何を考えるのか?

野望果てない信長であれば、世界に覇を唱えたいと思うかもしれない。
また、異文化であるヨーロッパの国というものを、一度は見てみたいと思うかもしれない。
となれば・・・
信長は世界制覇の下見のために渡航する?

これは話としては面白いが、ちと、ありえない。
信長と思われるような人物が海外に渡った記録はなさそうだ。(調べたらあったりして・・・)

となれば、
隠居?
さてさて、天下統一も目前だ。
「おい光秀、本能寺を襲って俺を殺したことにしろ。俺は隠居する。」
あまりにもファンタジー過ぎるか・・・。

まあ、隠居するのであれば、安土城の火災も信長の指揮の下行われたもので、土民の略奪などではなく、ただ単に資財をどこかに移しただけということにもできるのだが・・・
信長ほどの人物が死んだフリをして隠居をしたとしても、どこかしらにその痕跡は残りそうなものだから、死んだフリというのは荒唐無稽すぎる話であろう。

 だが、信長が本能寺で死んだというのも合点いかない。
では真実はどこに?
さっぱり解らない。

▲戻る
織田長益のその後

 長益はその後も生き延びて、信雄〜秀吉に仕えた。
その後、出家し有楽斎如庵と名乗った。
茶の道は千利休に学んだらしい。
家康にも通じていたらしく、家康から江戸の数寄屋橋門外に屋敷を与えられ、その屋敷跡地に有楽町という名が残されたという説がある。(ただし、この説には異論があり、長益が江戸に住んだという記録はなく、大坂での同様な逸話が混同された可能性を指摘されている。ちなみに、現在の大阪には有楽町という地名は残っていない)

▲戻る
ここである仮説が出てくる

 命からがら自分の領地まで逃げたと言われている伊賀越え。服部半蔵が元伊賀衆を頼りにしたということだが、実は計画通りに三河に移動しただけなのかもしれない。

 家康にとって信長は目の上のたんこぶ。その信長が裸同然で本能寺にいる。亡きものにするには絶好のチャンス。残念なのは家康が兵を引き連れていないことだが、京の近くにいて兵も携えている者が一人いる。明智光秀である。
光秀に「信長をやっちゃえよ。今なら楽勝でできるぞ」と、家康が謀反をそそのかしたりしていれば、話としてはとても面白いと思う。

柴田勝家は上杉と対峙。
滝川一益は北条と対峙。
羽柴秀吉は毛利と対峙。
信長が討たれれば、四国討伐隊である織田信孝・丹羽長秀が明智光秀隊と衝突するだろうが、光秀側に分があるだろう。
織田信雄も松ヶ島城から出てくるかもしれないが、光秀を討つまではできないだろう。
家康が三河から出陣し、近畿に着くころには明智軍もかなり消耗しているだろうから、天下が我が手に転がり込んでくる可能性は高い。

なーんて考えたりしてたら面白い。
が、あくまでも空想の域。


▲戻る
ここでもある仮説が出てくる

 実は梅雪が家康と別行動を取ったという話は嘘で、落ち武者狩りの手にかかってしまったのは家康で、その事実を隠蔽するために梅雪が家康の家臣らによって殺害された。という仮説である。
では、これ以降の家康は誰なのか?
影武者だということになる。

影武者の正体だが、

家康は双子だった。とか、
家康とさほど歳の離れていない異父兄弟がいた。とか、
家康と同時期に産まれた異母兄弟がいた。とか、
家康の兄弟が影武者として存在していたという説がある。

そのひとつに、出家して酒井浄慶と名乗った世良田二郎三郎元信が影武者だったとする説がある。

家康(竹千代/松平元信/松平元康)は幼少の頃、今川義元に人質として出されているのだが、人質として出されていたはずの駿府ではないところに家康が書いたとされる書(竹千代の竹の字と手形がある書)があるらしく、人質に出されていたのは影武者で、本物の家康はとある寺に匿われていた。とかいう説もあったりする。

また、本物の家康(元康)が死亡して影武者がそのあとを継いだという話もあって、
二十歳(守山/森山崩れ)のとき、
伊賀越え(本能寺の変)のとき、
関が原の戦いのとき、
大阪夏の陣のとき
に本物の家康は死んだという複数のパターンがある。

大阪夏の陣のときに家康が死んだという説では、小笠原秀政が影武者の名に挙げられたりもする。

▲戻る
四国討伐軍が減っってしまった理由は?

 1万4千だった四国討伐軍が7千にまで減ってしまった理由はなんだったのだろう?

 兵たちが明知軍を恐れて逃亡したという説がある。
明智軍と戦うのを恐れて逃亡するぐらいなら、四国討伐なんぞできるわけないと思うのだが、いかがだろう?

 実は津田信澄も光秀に呼応して挙兵しており、信孝と信澄が交戦した結果、半数までに減ってしまった。というのはどうだろう?
信澄が奇襲をかけたのだが、信孝、丹羽長秀らは素早く反応。大打撃を受けながらも、なんとか信澄を討ち取った。
かなりありそうな気もする?
しかし、信澄が光秀に加担した(通じていた)という記録は皆無らしいので、この説の可能性は激低だが。

 信澄が殺された理由は、織田家の後継者争いの一角になりそうな信澄を早めに抹殺しただけという見方もあるらしい。もしそうなら、信孝側が先手を取って交戦したはずなので被害は少なかっただろう。兵の減少はやはり逃亡ということになる。

 それにしても、逃亡兵が相次いで半数にまで減るというのは、いまひとつ釈然としない話である。

▲戻る
謎が多すぎる明智光秀という男

 この明智光秀なる人物、謎が多い。
清和源氏は土岐氏の支流明智氏である明智光綱の子とされているが、出生年は不明である。
斎藤道三夫人が叔母であり、信長の正室である濃姫とは従兄妹だった可能性があるという。
となれば、土岐氏を追いやって美濃国を手に入れた道三は、光秀にとって親族の敵でもあり、義理の伯父にもあたることになる。まったくもって複雑な話である。
青年期の光秀は、美濃の斎藤道三、越前の浅倉氏に仕えたとされるが、その記述はいまいち信憑性に欠ける感があるらしい。
まったくもって不透明な男である。

もしかして明智光秀という人物、実在してない?
とさえ思ってしまう。

▲戻る 

三代将軍家光の乳母として有名な春日局の父は、明智光秀の家臣の斎藤利三である。
利三の妻は斎藤道三の娘だという。ということは、利三と信長は義理の兄弟、利三と光秀は義理の従兄弟ということになる。
利三は光秀、秀満と共に本能寺の変の首謀者と云われている。

「松のさかえ」という文書(江戸城紅葉山文庫)によれば、春日局のことを「家康の愛妾で三代将軍家光の実母」と記されているそうだ。

本能寺の変の首謀者の娘が家康の愛妾で将軍の母。なんとも・・・。
信長の不可解な行動

1580年(天正8年)

 佐久間信盛、定栄(さだひで)親子に対して19か条の折檻状を送りつける。書面上の日付は8月12日。
その内容は、

石山本願寺攻略を命じたのに何もせずに手をこまねいているばかり。その間、他の将たちは武勲をあげているというのに、石山本願寺に攻め入るわけでもなく、相談にも来るでもない。
そのうえ、勝手な振る舞いが多く、立派な振る舞いはひとつもない。
敵を平らげるか、討ち死にするか、どちらかにせよ。
頭を丸めて高野山に行き、赦しが出るのを待て。

というもの。

その後、佐久間家は高野山からも追われ、佐久間家は散り散りになる。1582年1月16日に信盛が死去すると、その直後、織田信忠付きの家臣として定栄に帰参が許される。
定栄は本能寺の変後、茶人として秀吉に仕え、秀吉没後は家康に召抱えられて生き延びる。



8月17日

 林秀貞(ひでさだ/もしくは通勝-みちかつ)が、25年前に織田信行(信長の弟)を擁立したことを理由に追放。

 安藤守就(もりなり/もしくは範俊-のりとし)親子は、甲斐の武田勝頼と内通したということで追放。

 丹羽氏勝(うじかつ/もしくは右近太夫氏勝)も追放。罪状は、25年前に織田信次(信長の叔父)が織田秀孝(信長の弟)を殺害した一件に組していたこと、甲斐武田に内通したこと。

本能寺の変が起きる二年前、本願寺討伐が終ったことを機に重臣の中から追放者が出る。

佐久間信盛に関しては、本願寺を落とせないばかりか茶会ばかり開いていたというから、納得出来る要素もあるが、このときの佐久間は織田軍の筆頭重臣。与えられていた兵力も一番であったらしい。いわば、織田軍の2。それが追放である。ただ事ではない。

林秀貞の場合は、「なぜ今頃になって?」という難癖を付けての追放。謀反の匂いを嗅ぎつけたのか、家臣として見限ったのか、不思議なところである。

安藤守就は、まさに謀反を企てていた可能性が高いのだから納得はいく。

丹羽氏勝については、古い話を持ち出しながら、クーデター疑惑。


こうしてみると、信長の周りにはクーデターの匂いがプンプンしていたのかもしれない。
下克上の世であるだけに、信長という覇王を恐れながらも、誰しもが頂点に君臨することを夢見ていただろう。誰もが、チャンスがあれば信長を討とうと考えていた可能性もある。
もしかしたら、水面下では信長包囲網が出来上がっていたのかもしれない。ある者は他勢力と組もうとし、ある者は他者を巧みに追い込んで信長の寝首を取らせようと画策し、またある者は自分の仕える武将に天下を取らせようと暗躍していたとしたら・・・。
信長は、そういう匂いの一部を察知して大追放劇に踏み切ったのかもしれない。

信長に対してのクーデターといえば、荒木村重が有名である。
荒木村重のクーデター

1578年(天正6年)10月、突如として信長に対して反旗を翻す。
しかし、荒木村重は迷いながらの謀反だったらしく躊躇していた。だが、高山右近の「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」という一言が効いて決起。
村重と旧知の仲でもある黒田孝高(如水/官兵衛)が説得に赴くが、監禁されてしまう。
篭城し一年ほど抗戦したが、次第に戦況は不利になっていき、城を捨て逃げることになる。
信長軍に捕まった一族と家臣、領民は虐殺された。
村重自身は逃げ延び、信長没後、茶人として生きた。
イエズス会の動き

イエズス会との接触によって、日本は大きな影響を受けていた。
宗教・技術・知識、先進国の文化は様々な人々の運命を変えたことだろう。
信長も外国人たちから世界の情勢を聴いていたはずだ。そのうえで、日本の覇者たらんとする信長はどういう動きをみせるのだろうか?


1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、島津貴久の許しを貰い、キリスト教の布教を始める。
1550年 ザビエルは平戸〜山口〜堺と、布教活動をしながら移動。
1551年 ザビエルはなんとか、京まで行くことができたが、天皇に会うことは難しく、あきらめて京を後にする。平戸や山口で活動したあと、インドに向けて渡海。
1552年 インドから明に行こうとしていたザビエルだったが、明に上陸する手前で死去してしまう。
1563年 ルイス・フロイスが長崎に上陸
1565年 ビレラ、フロイスら宣教師が三好義継によって京から追放される。
1569年 フロイスが信長と対面。キリスト教の布教を許される。
1579年 イエズス会総長名代の巡察師としてアジアを視察しているアレッサンドロ・バリニャーノが来日。
1582年2月20日 天正遣欧少年使節がローマに向け長崎を出発
 〜本能寺の変〜
1587年 秀吉の発した伴天連追放令(伴天連の狙いが日本を植民地にすることだと危惧)によって、フロイスも活動の場を移し、最終的には長崎に落ち着く。
1590年7月21日 少年使節団帰国。
1597年 長崎の地でフロイス死去。享年65。


神というものをどう考えていたのかは判らないが、「宗教は民を束ねる道具として使える」という考えは持っていたのかもしれない。キリスト教の布教を許した理由は、おそらく、信長に従わない仏門一派の宗教勢力を切り崩すのに都合が良かったからではないだろうか?

イエズス会が本能寺の変に関わっていた可能性は低いと思う。もし、関わっていたのであれば、その後の日本はキリスト教に染められていただろう。
黒幕は?

やはり一番怪しいのは秀吉だ。
黒田孝高がかなりの策を練っていて、様々な人たちがそれに絡んできたと思う。
光秀、家康、堺の商人、公家衆、秀吉の正室ねね。その全てが複雑に絡み合って信長暗殺に動いていったら・・・。
情報戦に長けている秀吉は、事前に本能寺の変が起こることを知っていて、兵を京へと向かわせていた。そう考えれば、中国大返しの謎も解ける。
一杯食わされたのは家康と光秀で、家康は光秀を匿う。だからこそ、愛妾に利三の娘を囲ったりもする。
後は秀吉と家康の知恵比べだ。
やはり、天下人は秀吉である。
あとがき

 歴史的な文献というものは、真実だけが書かれているわけではないものが多い。複数の文献に同じ内容のものが書かれているとか、遺跡や後世まで残された品々と文献の記述がどれだけ合致するかなどで、その文献の信憑性が測られる。(タイムマシンでも使わなければ、真実かどうかの確認なんてできないからね)
 本能寺の変についてもさまざまな仮説があって、当時書かれたとされる書物や、後世の覚書、研究資料などをもとに様々な人たちが考察しているが、未だ真相は明らかにされていない。

 明智光秀が謀反を起こした理由
 織田信長の遺体が見つからなかったことにより浮かんでくる生存説
 徳川家康の伊賀越えにみえる奇妙な点
 羽柴秀吉の中国大返しの謎
 明智光秀の遺体の不自然さ

などと、不自然、不可解、奇妙な部分が多すぎるのだ。
オカルト好きにはたまらないネタである。
おまけに、小説、ドラマ、映画などで脚色された部分を鵜呑みにしてしまっていたりと、オカルト分子に拍車がかかったりもするから困ったものである。(かと言って、それを完全否定できるかどうかはなんともいえない。ただ、定説から外れすぎているものに関してはフィクションだという認識は必要)

 ミステリアスな魅力が人を惹きつける本能寺の変。
はたして、真実は?
 

2009年1月 − 管理人 記 
 
参考資料

     


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 


>>次へ
 
Copyright (C) 2003〜 黒麒燃魂 All Rights Reserved

Topへ