歴史

石田三成
 

近江の国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)出身。
父・正継(藤左衛門)の次男・佐吉として生まれる。(石田氏はこの地の土豪であった可能性もあるらしい)

羽柴秀吉
の長浜城主時代に、父、兄・正純と共に仕官したとされる。(三成が15〜18歳の頃)
秀吉が鷹狩りに出かけたときに三杯のお茶を出したエピソードが、三成召し抱えの逸話(「武将感状記」という1716年の書物が初出とされている)として語られることがあるが、この話は後年の作り話の可能性が高い。
「茶道四祖伝書」に同じような逸話(登場人物は千利休と後の土屋喜斎となる小僧)があるらしい。

茶道四祖伝書
  奈良の豪商・松屋の歴代当主が見聞した、安土・桃山・江戸初期に活躍した4人の茶道の祖(千利休、古田織部、細川三斎、小堀遠州)の言行録。
原本はおそらく江戸時代初期に創られ、その後、写本で残されたようだ。原本が現存しているかどうかは不明。

    
【三杯のお茶/三献茶】


羽柴秀吉が鷹狩りに出かけた際に、のどが渇いたので寺に立ち寄り茶を所望した。
その寺の小僧だった後の三成が茶を用意し
大きめの茶碗7分目のぬるいお茶をだした。
のどが渇いていた秀吉は、出されたお茶を一気に飲み干し、お茶のお代わりを要求した。
お代わりに出した二杯目のお茶は、少し小さめの茶碗半分ほどの少し熱めのお茶。
秀吉は、二杯目のお茶も飲み干し、もう一杯要求する。
三杯目のお茶は、小さい茶碗に熱々のお茶を入れたものだった。
秀吉は、三杯目のお茶を味わいながらその気配りに感心し、お茶を出した小僧を召し抱えた。

一杯目…一気にのどの渇きを潤せるように、ぬるい温度で量多めのお茶
二杯目…ある程度のどが潤ったところに、少し温度を上げた少なめのお茶
三杯目…お茶を味わいながらゆったりできるように熱々のお茶

だ、が、
もう一度言おう。
この「三杯のお茶/三献茶」の話は、後年に創られた話である可能性が高い。(個人的には作り話確定だと思ってます)

「武将感状記」と「茶道四祖伝書」のどっちが元ネタなのかはわかったもんではない。
もしかしたらどっちもパクリ話の可能性だってある。
実はよくあるネタ話の類なのかもしれない。(内容的にその線なのかも)

ただ、言えるのは、「他人への気配りは大事」「お茶は健康に良い」ということだ。
 
 

三杯のお茶 つながりで・・・

青森県八甲田山に伝わる三杯のお茶の話

をご紹介。

十和田八幡平国立公園かやの(萱野)高原には「長生きのお茶」というものがあります。

一ぱいのめば 三年長生きし
二はいのめば 六年長生きし
三ばいのめば なんと おどろいた ことに 死ぬまで生きる

なんだそうです。
お茶を飲めば寿命が延びちゃいます!
・・・
ただし、三杯以上は効果減なのかも・・・?
二杯で止めとけば、寿命はプラス六年されるようです。

青森県青森市から国道103号線で八甲田山へ向かう途中の萱野高原『長生きの茶屋』『萱野茶屋』で「長生きのお茶」が、もっと先へ進んだ『酸ヶ湯温泉』で「長寿の茶」が購入できるようです。酸ヶ湯温泉では、通販もやってるみたいなので気になった方は検索してみてね。

十和田八幡平国立公園と言っても、十和田湖から八甲田山まで含んだ広範囲な国立公園なので、十和田の名に釣られて十和田湖を目指すと大変なのかも。青森市から行くのが良策っぽいですね。
 

 青森県地図(画像をクリックすると別窓で大きく表示されます)
 
青森の「長生きのお茶」ではありませんが、
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割と 長寿祈願的なお茶は全国各地にあるっぽいです。
ご贈答にもいいかもね。
 

秀吉に召し抱えられた三成は、中国攻めに従軍する。
その後、本能寺の変が起き、秀吉が天下の階段を登っていく脇を固める一人として台頭していく。
1583年(天正11年)の賤ケ岳の戦いでは先駆け衆として一番槍の功をあげた。
1586年(天正14年)には、島左近(清興)を召し抱えられるほどの出世をあげている。(島右近の召し抱えについては、三成は自分の知行の半分を与えて召し抱えたという話もある)
堺奉行を命じられ、堺を兵站基地として整備。1587年(天正15年)の九州平定の機動力になったと思われる。
博多奉行として、平定後の九州を整備。
1590年(天正18年)の小田原征伐では、館林城、忍城攻略を命じられる。
1592年(文禄元年)、文禄の役(朝鮮出兵)では渡海して総奉行を務める。
1595年(文禄4年)、佐和山城城主となる。
1597年(慶長2年)、慶長の役(第二次朝鮮出兵)では国内に留まり後方支援を行った。
現地からの状況報告を受けた秀吉が激怒し、一部の大名が処分されるという事件が起きる。報告を行ったのは福原長堯(正室は三成の妹)らであったが、処分を受けた黒田長政蜂須賀家政らは、福原と三成が秀吉に進言したことで処分が下ったと判断する。このことにより、武断派加藤清正福島正則黒田長政蜂須賀家政など)と文治派石田三成大谷吉継小西行長など)の間に亀裂が入り、しだいに深まっていく。
 
    
五大老


徳川家康
前田利家
上杉景勝
毛利輝元
宇喜多秀家

前田利長 父・前田利家の没後に継ぐ

小早川隆景 大老の一人だったが、五大老が制度化する前に没している
 
 

五奉行


浅野長政
前田玄以
石田三成
増田長盛
長束正家

宮部継潤(みやべけいじゅん) 浅野長政の謹慎時に代行
富田一白(とみたいっぱく/かずのぶ) 浅野長政の謹慎時に代行
 

1598年(慶長3年)8月、秀吉が没すると朝鮮へ出兵している軍の帰還業務に尽力する。
1599年(慶長4年)3月、武断派と文治派の対立の調停を仲裁していた前田利家が没すると、その直後、加藤清正福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明が三成の大阪屋敷を襲撃するといった事件が起きる。家康が仲介に入り、三成が隠居することになる。
1600年(慶長5年)、家康と武断派武将が会津征伐に出立すると、毛利輝元を大将とする対家康の西軍が挙兵する。この西軍の主軸が三成だとされる。
西軍の大将・輝元は大阪城に詰め、三成を含めた軍勢は東へ進軍。伏見城、伊賀上野城、安濃津城、松坂砂などを落とす。東軍が西上したことを知ると、転進し美濃方面へ向かう。そして、関ケ原の戦いとなる。
小早川秀秋、脇坂安治らが裏切り、西軍が総崩れとなると三成は戦場を脱出する。
9月18日には居城の佐和山城が陥落。
9月21日、逃走していた三成が古橋で潜伏しているところを田中吉政の手の者によって捕縛される。
9月22日、大津城に護送され、城門前で生き晒しにされる。
9月27日、大阪に護送。
9月28日、小西行長安国寺恵瓊らと共に大坂、堺を罪人として引き回される。
9月29日、京都へ護送。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首され、41年の生涯を終えた。その首が晒された後、遺体は京都大徳寺の三玄院に葬られた。
 
   
  石田三成の子たち



長男・重家

関ケ原の戦い(1600年/慶長5年)の後に佐和山城が落城する。その際、出家し妙心寺寿聖院に入る。
宗亨(そうきょう)と名乗っていたが、1623年(元和9年)(40歳の時)に済院宗亨大禅師となり寿聖院三世を継承する。
1665年(寛文5年)、住職を弟子に譲り82歳で隠居。
隠居後に石田家の記録などを記すなどして、1686年(貞享3年)に103歳で天寿を全うする。



次男・重成

関ケ原の戦い(1600年/慶長5年)時までは、豊臣秀頼の小姓として大阪城にいたとされる。西軍が敗北となったため、津軽(弘前)藩初代藩主・津軽為信の嫡男・信健に匿われて津軽氏の直轄地(現・弘前市)に逃れる。
津軽では、杉山源吾を名乗り、深味村(現・板柳町)に隠棲する。(杉山八兵衛と名を変えて津軽藩の侍大将となったとする話もあるらしい)
重成の長男・吉成二代目津軽(弘前)藩主・津軽信枚(つがるのぶひら)の娘を妻にもらい受け、津軽(弘前)藩の家老職として仕えたという。
またその子孫は、弘前藩の重臣として仕えたという。
青森県弘前市の宗徳寺は杉山家の菩提寺であり、その墓には代々「豊臣姓」が刻まれているという。(明治期の子孫の中には豊臣に改姓した者もいるらしい。石田に改姓した者もいそうな気がする)



三男・佐吉
佐和山城落城の際に、三成の兄・正澄の家臣である津田清幽(つだきよふか)に伴われ助命される。
高野山で出家し、深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)を名乗る。河浦山薬師寺(現・山梨県)の十六世住職となり82歳で没する。



長女

石田家家臣・山田勝重に嫁ぐ。
佐和山城落城(1600年/慶長5年)のとき、夫・勝重(当時25歳)は父・山田上野介からの厳命を受け、妻と嫡男・宇吉郎(5歳)を連れて脱出。(おそらくお付きの者も数人いたであろう)上野介は佐和山城で自害。
どういった経緯からなのか夫・勝重は逃れた先の松平忠輝に仕える。その経緯というのもまた複雑・・・
 
   
松平忠輝


徳川家康の六男として、1592年(天正20年)に生まれる。
母は家康の側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)。
正室は伊達政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)。
1603年(慶長8年)に松代城主に。1610年(慶長15年)には福島城主(45万石)になる。
1616年(元和2年)の家康没後、兄・徳川秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊(金剛證寺/こんごうしょうじ)に流罪となった。
1626年(寛永3年)に信濃国諏訪(諏訪藩初代藩主・諏訪頼水)のもとに預け替えとなり、1683年(天和3年)7月3日に幽閉されたまま没した。

忠輝は幼少のころから父・家康から冷遇されていたと言われている。「忠輝の母・茶阿局の身分が低かった」「容貌が醜かった」などが原因だと言われている。
 
 
自分が側室にした女が子を産んで、女の身分が低いとか、生まれた子の見てくれが醜かったとかっていう理由でその子を邪険にする父親って・・・。天下人だからそんなもんなのかもしれませんが、家康って人としてどうなのよ?と思ってしまいます。

しかし、本当の原因は、茶阿局の実兄・山田上野介山田勝重の父)が石田三成の家臣だったことのほうなのかもしれない。(つーても、他のルートでも徳川家の血筋に三成の血は食い込んでくるんですけどねw)
 

夫・勝重忠輝に召し抱えられた経緯は、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所/おね)付きの筆頭上臈(ひっとうじょうろう)・孝蔵主(こうぞうす)が茶阿局のもとに送り届けたからだと言われている。
 
   
孝蔵主


本名不明。孝蔵主とは上臈(年功を積んだ高位の者の意味)としての雅名(物の風流な呼び名の意味)。
蒲生氏の家臣・川副勝重の娘。石田三成とは義理の親戚。
北政所(おね)に仕え、豊臣秀吉が関白になった(1585年/天正13年)頃には、奥を取り仕切る立場になっていたらしい。
1598年(慶長3年)、秀吉が没すると高台院(北政所/おね)と共に大阪城を離れ、京の三本木(現・祇園付近)に移り、高台院の執事を務める。
1614年(慶長19年)、駿府に赴くと、その後徳川秀忠から江戸城下に屋敷を与えられている。
1625年(寛永2年)には、河内国深井村に200石の領地を与えられている。
1626年(寛永3年)に死去。

高台院のもとを去った理由は不明。
徳川秀忠孝蔵主を保護した理由として、秀忠が人質として豊臣秀吉のもとに送られていた時期に、孝蔵主北政所(おね)が中心となって身の回りの世話をしたことから、秀忠はそのころの恩に報いたのではないかとする説がある。
 
 

夫・勝重の父・上野介の妹・茶阿局忠輝の母(徳川家康の側室)だったことから、その縁を頼ったのだと思われる。
佐和山城から逃がすときに「茶阿局はお前の叔母だから頼りなさい」と言ったとか、そういった内容の書状を持たせたとかした上で孝蔵主に託したのかもしれない。
1609年(慶長14年)には、夫・勝重は松代藩の重臣に起用される。
1616年(元和2年)に松平忠輝が改易されると、二代目津軽(弘前)藩主・津軽信枚の正室となっていた妹・辰姫の縁で津軽(弘前)藩から150石を拝領しながら江戸で生活した。夫・勝重は隠棲し山田草山と名乗ったらしい。
1647年(正保4年)、69歳で没する。(1655年5月17日没/77歳 とする説もある)

長男の山田武兵衛は改名して富岡武兵衛と名乗る。そして、津軽信枚の娘・松姫を妻に迎える。



次女・小石殿

蒲生家家臣・岡重政(半兵衛)の室となるが、1613年(慶長18年)に夫・重政は蒲生家の御家騒動の咎で切腹処分(幕府から江戸に呼び出されたとも、家康直々に駿府へ呼び出されたとも言われている)となってしまう。
夫・重政を失った後、会津を離れ若狭国へ移り小浜で没した(没年不明)とされる。
 
   
蒲生家の御家騒動


蒲生氏郷の嫡子・秀行(30歳)が没したことにより、秀行の嫡子・忠郷(10歳)が家督を継ぐことになった。
忠郷が幼少であったために、母・振姫が後見人となるが、蒲生家仕置奉行の岡重政との意見が合わず抗争となる。

振姫徳川家康の三女。母は家康の側室・良雲院武田信玄の娘、または武田家旧家臣の娘とも言われる)。(家康の側室・下山殿を母とする説もあるらしい)

岡重政の子・吉右衛門重政の同僚・町野幸和の庇護を受け、その娘を娶る。吉右衛門の娘に於振(自証院)があり、春日局の養女となった。於振は後に江戸幕府第三代将軍・徳川家光の側室となり長女・千代姫(霊仙院)を産んでいる。千代姫尾張徳川家二代目・光友の正室となり、尾張徳川家三代目・綱誠(つななり)を産んだ。
 
 

にしても・・・岡重政の孫娘→春日局の養女→徳川家光の側室となった於振重政が切腹となった原因の振姫に名を被せてくるあたり、ものすごく怨念を感じるのは私だけだろうか?
しかも春日局の養女に入るなんてところも、かなり奥深い画策を感じずにはいられない。
気に恐ろしいのは人間なり。
 



三女・辰姫(辰子/大館御前/荘厳院)

1591年/(もしくは1592年)産まれ。
早い時期から北政所(おね/高台院)の養女になる。秀吉が没したのが1598年。その後らしいので、6〜8歳ごろに養女になったとみられる。
津軽氏の直轄地(現・弘前市)に移ったのが、関ケ原の戦い(1600年/慶長5年)の直後に兄・重成と共に逃げたのか、1610年(慶長15年)の輿入れのときなのかは不明。
いずれにせよ、1610年(慶長15年)に二代目津軽(弘前)藩主・信枚の正室となったようだ。
しかし、1613年/慶長18年(1611年/慶長16年の説もあり)に徳川家康の養女・満天姫(まてひめ/家康の異父弟・松平康元の娘)が、天海大僧正の進言もあって正室として輿入れすることになり、辰姫は側室に降格されてしまう。

   
満天姫(まてひめ)/葉縦院


福島正之(ふくしままさゆき/福島正則の嫡男)との間に男児を産んでいた。
福島正之は1607年(慶長12年)に乱行の咎で幽閉され死に至った。このとき、満天姫は妊娠していて、ほどなく出産するが、正則の判断によって徳川家に返された。(徳川幕府側によって強制的に引き上げとなったとする説もある)
1613年(慶長18年)、天海大僧正の進言もあり、満天姫津軽信枚に再嫁することになった。(三成の血を断絶しようとしていた?)
すでに信枚の正室となっていた辰姫を上州大舘に移し、側室に降格することによって、満天姫は連れ子を伴い正室として迎えられた。
1619年(元和6年)、信枚との間に男児(後の信英)を授かる。(しかし、地元の資料に、信英は側室の子であり満天姫の子ではないとするものもあるらしい)
同年、幕府から津軽家に信濃川中島藩への転封の内示が出る。これに対して、藩主・信枚満天姫らは幕閣に転封取りやめを働きかけ、内示から一か月もたたないうちに転封取り消しとなった。(転封後に津軽藩へ入る予定だった広島藩主・福島正則が信濃川中島藩へ移封となった)
1631年(寛永8年)に夫・信枚が没し、信義信枚辰姫の間の子)が三代藩主となる。これ以降、満天姫葉縦院と号するようになる。
1636年(寛永13年)、信濃川中島藩へ転封後に福島家は改易となり、3千石の旗本にまで身分を落としていた。大道寺直秀福島正之満天姫の間の子)は自分が福島家の血筋であるがゆえに「自身を藩主とした福島家の再興」を考え、幕府へ嘆願するために江戸へ向かうことにした。旅立ちの挨拶で母・満天姫のもとを訪れた際、杯を飲み干した直後、突然苦しみだし絶命した。(満天姫は以前から、直秀の福島家再興の考えは幕府の心証を害するものだとして諫めていたという)
1638年(寛永15年)弘前の地でその生涯を閉じる。
 
 

福島正之(ふくしままさゆき)


1585年(天正13年)、別所重宗福島正信の娘(福島正則の姉)との間に七男として生まれる。
叔父・福島正則の嫡男・正友正長とも)が夭折したため、正則の養嗣子となる。
1599年(慶長4年)に満天姫と結婚。
1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは、竹ヶ鼻城の戦い、岐阜城攻めに参加して軍功をあげている。
1607年(慶長12年)、養父・正則から乱行の咎を江戸幕府に訴えられ、幽閉処分となる。
1608年(慶長13年)、幽閉されたまま24歳で餓死した。

養父・正則には、1598年(慶長3年)に次男・忠勝(幼名・正勝)が産まれており、実子に家督を継がせたいがための虚偽の訴えで幽閉〜餓死となったとも言われている。
 

揺れ動く福島正則の心情


福島正則関ケ原の戦いでは対石田三成ということで東軍に与したが、徳川対豊臣を考えたときには縁故の深い豊臣家を支持していたと思われる。本姓が「豊臣」であることや豊臣秀頼が病を患うと見舞いに駆け付けていることなど、豊臣家を主筋として立てている史料がある。
関ケ原の戦い前後では徳川家康に近い関係になって、家康の養女・満天姫を自分の養嗣子・正之の妻にもらい受けたりもしたものの、実子・忠勝が無事に成長したことと、家康の豊臣家に対する行動が次第に厳しさを増していくことなどが、正之の幽閉、満天姫の返還につながったのかもしれない。

大阪冬の陣(1614年/慶長19年)・夏の陣(1615年/慶長20年)では時勢を読んでか豊臣方からの加勢依頼を拒否している。
徳川方からは正則の従軍は許されずに留守居役として江戸に留め置かれたが、嫡男・忠勝が兵を率いて大阪に出陣した。
対三成では家康に与するも、対豊臣ではなかった福島正則。もしかしたら、家康が豊臣家に牙をむくとは思っていなかったのかもしれない。気が付いた時には、徳川の力は強大になっており、もはや手が付けられない。そんな中で揺れ動き、豊臣恩顧の大名たちも次々と姿を消えてしまったため、うまく立ち回ることができなかったのかもしれない。
1619年(元和5年)に「武家諸法度違反」、それに伴う「破却不十分の咎」、「人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発遅延」などで将軍・徳川秀忠の怒りを買い、減封・転封となってしまう。移封後、忠勝に家督を譲り、信濃高井野(現・長野県高山村)に隠居。出家し高斎と号した。
1620年(元和6年)、忠勝(23)が早世。正則は魚沼郡2万5千石を幕府に返上。残り2万石となった福島家は、おそらく忠勝の弟・正利が継いだのであろう。(史料ではこの辺が見当たらない。正則が隠居を解いた可能性もあるのかも?この時、忠勝の子・正長は元服前だと思われるので、正則正利が後見人となった可能性も考えられるのか?)
1624年(寛永元年)、正則(64歳)没。
ここで、福島家は幕府に無断で正則の遺体を火葬したとして改易になり、正利が奔走(正則の遺品の一部を徳川家の秀忠家光忠長に献上している)。
1625年(寛永2年)、正則生前時の功績を考え(それと正利の奔走が功を奏してか?)、幕府は正利に旧領から3112石を与えて旗本とした。
1637年(寛永14年)12月8日、正利が37歳で没すると、嗣子がいないことから福島家断絶となった。
(1681年/天和14年に福島正勝が2千石の旗本として取り立てられ、福島家は再興する)
 

大道寺直秀


1606年(慶長11年)、福島正之満天姫との間に生まれる。
1607年(慶長12年)に父・正之が幽閉された(翌年に餓死)ため、母に伴って徳川家に戻される。
1613年(慶長18年)、母・満天姫津軽(弘前)藩二代目藩主・津軽信枚と再婚。
成長すると、津軽(弘前)藩の重臣・大道寺直英の婿養子に入り大道寺岩見直秀と名乗った。
1636年(寛永13年)、「福島家再興の嘆願」をするために江戸へ旅立つ挨拶をしに母・満天姫のもとへ訪れた際、杯を飲み干した直後に突然苦しみだし絶命したという。(毒殺としか思えないw)
 

福島正勝

1665年(寛文5年)6月15年、福島佐兵衛正長(父・福島忠勝)の長男として生まれる。
妻・松前矩広(まつまえのりひろ/松前藩五代目藩主〜ただし、松前藩が成立したのは1719年/享保4年〜)の娘(松前矩広の娘を妻に迎えたのは、正勝の子・正視とする説あり)。弟・山名隆豊
福島家は正利福島正則の次男)の代に断絶する。
1681年(天和元年)3月21日、京に住んでいた正勝が召し出され、4月15日に第五代将軍・徳川綱吉に拝謁。福島家再興となる。
1683年(天和2年)12月23日には上総国長柄郡・夷隅郡の内に2千石を与えられ、与力に列する。
1689年(元禄2年)10月15日には小姓組番頭。12月27日には伊豆守に叙任された。
1696年(元禄9年)5月9日、33歳でその生涯を閉じた。幕府に仕えたのは7年間だった。
 

関ケ原の戦いにおいての論功行賞として津軽(弘前)は、上野国大舘(現・群馬県太田市)に飛び地を得ていた。そこに辰姫は移され、大館御前と呼ばれるようになる。
夫・信枚は参勤交代の折には必ず辰姫のもとに立ち寄った。
1619年(元和5年)には長男・平蔵(のちの信義)が産まれている。
1623年(元和9年)、上野国大舘の地で辰姫(32歳)はその生涯を閉じる。

辰姫が産んだ平蔵信義)は津軽家三代目当主となる。

   
津軽(弘前)藩の跡目相続問題と転封話

1623年(元和9年)に辰姫(大館御前)が亡くなると、子の平蔵信義)は津軽(弘前)の江戸藩邸に引き取られた。
1631年(寛永8年)に父・信枚も死去し、信義は13歳で家督を相続することになる。
1634年(寛永11年)に船橋騒動、1647年(天保4年)にもお家騒動が起きている。
 
 

船橋騒動

津軽信義の乳母は旧宇喜多秀家家臣・船橋半左衛門の妻であった。
信義が津軽家の家督を継ぐと、次第に船橋親子の権力が強くなっていった。
藩内では元々古参と新参の家臣間に対立があり、船橋親子の台頭はくすぶっていた火種に油を注ぐ形になってしまう。
1634年(寛永11年)7月、三代将軍・徳川家光の上洛に津軽信義は同行。翌月に江戸藩邸に戻ったときに、古参の家臣たちが江戸の町家に立て篭もり、船橋半左衛門らの放逐を求めた。弘前藩側との交渉は折り合いがつかず、幕府が介入する迄に至る。
1636年(寛永13年)、騒動から2年後に裁定が下り、喧嘩両成敗、古参の中心人物・乳井健定兼平信孝は長門・毛利家へ、新参の船橋半左衛門長仍親子乾安儔(いぬいやすとも)らは伊予松山藩松平家・松平定行へお預けとなった。
 

正保の騒動

1647年(正保4年)、三代目弘前藩主・津軽信義を強制隠居、嫡子・信政を廃嫡させて、信義の異母兄弟・津軽信英(つがるのぶふさ)(母・満天姫)を藩主に擁立させようとする企てが密告により発覚する。
関係者数名に処分が下り、流罪、切腹となった者も出た。

弘前


1627年(寛永4年)、1611年(慶長16年)に完成した新城・鷹岡(高岡)の天守が落雷で炎上。内部に保管されていた火薬に引火し大爆発するという事故が起きる。
1628年(寛永5年)、信枚が帰依する天海大僧正鷹岡(高岡)を弘前と名付け改称。
 


その他、三成には複数の側室との間に産まれた子が数人いたという話が、その子孫たちに伝承されているらしい。


   
にしても・・・岡重政の孫娘→春日局の養女→徳川家光の側室となった於振重政が切腹となった原因の振姫に名を被せてくるあたり、ものすごく怨念を感じるのは私だけだろうか?
しかも春日局の養女に入るなんてところも、かなり奥深い画策を感じずにはいられない。
気に恐ろしいのは人間なり。
 
 
 

 石田三成の子孫の系図(図をクリックすると大きい図が別窓で表示されます)
   
まあまあ、ここでも同じ名前、似たような名前が錯綜するおかげで分かりにくいったらありゃしない!

○○の子孫に伝わる伝承やらなんやら。どこまで信じられるものやら・・・。
そんな気にもなってしまう。

それにしても、「三杯のお茶」だけではなく、青森(とくに津軽)と石田家(三成の子ら)の繋がりの複雑なことw
南部家から袂を分けて独立した津軽為信が、地盤固めと対南部を考えて、西日本制覇後に北条征伐に動き出した巨大勢力の豊臣秀吉との繋がりを求めたことから始まったと思われる。
本州の端(当時でいえば日本の端)の地とはいえ、日本の中心地(当時の京都)の情報は貿易船からももたらされていたであろう。古くから北海道の海産物は、日本海の各港を経由しつつ最南は沖縄まで至っていたらしいので、津軽半島にも寄港は数か所あってもおかしくはない。十三湊(十三湖)、鰺ヶ沢、深浦とその辺から情報は伝わっていたのではないか?忍者を召し抱えていたという史料もあるらしいので、各地域の情報は集められていたのだと思われる。
そんな中で、「秀吉さ逆らうのはまいね。まんずまいね。へば、へぐ、けやぐさしてもらったほうがいいべね。(秀吉に逆らうのはダメだな。本当にダメだ。それなら、早く仲間にしてもらったほうがいいな)」とか考えて取り入ったのかも。鷹狩りが好きと聞きつけて鷹を献上した話が伝えられている。

秀吉に恭順する流れで三成に繋がりを持ち、徳川にも繋がりを持って、関ケ原の戦いのときには東軍に属しつつ、西軍の主軸である三成の子らを保護することで、東軍対西軍の戦いの結果がどっちに転んでも何とかなるように策を打ったんじゃないかなぁ。他家でもそういった動きがみられたように。


兎にも角にも、青森という地は不思議な地であるなぁ。と、改めて思う私であった。
   
2020年10月 記 
 
参考資料



三成伝説 / オンライン三成会 編 (サンライズ出版)


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